はじめに

 私たちの正常な組織はその機能を恒常的に保つ制御機構が備わっている。疾患は、組織恒常性が失われた時に現れる、異常な組織機能が表現した状態であると言える。組織恒常性を保つ役割を果たすのは「組織幹細胞」と呼ばれる細胞であり、組織の中で自己複製を繰り返し、組織の機能維持に必要な分化細胞を生み出すことができる細胞である。そのため、疾患は組織幹細胞が正常な機能を保たなくなった状態であると言い換えることができる。
 これまで、ヒト疾患に対する基礎研究において用いられてきた細胞は、汎用性のある細胞株または患者由来がん組織から樹立する初代培養細胞だったが、従来の細胞培養法では、これらは一部の悪性がんからしか樹立することができず、実際の臨床で見られる多種類のがんの特徴を反映することができなかった。そのため、がん細胞株を用いた研究結果は臨床におけるがんの挙動と相違があり、得られた知見ががんの発生機構・機能解明や新しい治療法の開発に結びつかないことが問題となっていた。
 我々は、疾患を細胞レベルで研究するために、 “小さな臓器”とも呼ばれる「オルガノイド」の培養方法を開発し、この技術的限界を打破した。オルガノイド培養法は、ヒトの組織から取り出した組織細胞に、組織幹細胞維持に必須の因子を添加することで自己複製と分化細胞産生を促し永続的生育を可能にする手法で、小さいながらも体内における組織と同様の組織構造と機能を持った組織体を再現することが可能である。
 当研究室ではこのオルガノイド培養技術を軸に、消化器がんをはじめとする消化器疾患の発生機構・新規治療法の開発を目指し、5つの重要なテーマのもとに研究を推進している。

1. オルガノイドライブラリー
ー患者由来疾患オルガノイドの樹立と解析ー

 組織ごとに異なる組織幹細胞維持に必要な因子の理解を深めることで、組織ごとに培養条件を最適化し、臨床で存在する多種類の大腸がん・膵臓がん・胃がん組織から高効率でオルガノイドを樹立する。これらを集めた「消化器がんオルガノイドライブラリー」を作ることで、消化器がんをより幅広い種類・多角的な観点から解析し、これまで解明できなかった多様ながんの特徴や発生機構を解き明かす。

2. オルガノイド疾患モデル
ー疾患の遺伝子異常を人工的に再構築ー

 消化器がんオルガノイドの研究から、組織幹細胞を維持するシグナルに遺伝子変異を持ったがん細胞は、そのシグナルに依存せずに幹細胞性を維持し、増殖し続ける能力を獲得することがわかった。この幹細胞性維持とニッチシグナルに関する現在までの理解に基づき、CRISPR-Cas9ゲノム編集および遺伝子過剰発現技術を駆使することで、正常オルガノイドを出発点として人工的に疾患オルガノイドを再現する。再現したオルガノイドのさらなる解析で、より深い疾患の発生機構への理解を目指す。

3. がん幹細胞モデル
ーがんのアキレス腱を標的とした治療開発ー

 がん組織の中で幹細胞の役割を担うとされるがん幹細胞は、たった1つから腫瘍組織を形成する能力を持ち、化学療法後の再発や転移の原因であると言われる。がん幹細胞が腫瘍組織内でどのような挙動を示すのかを視覚的・立体的に観察するために我々が開発したイメージング技術は、生きた腫瘍内においてがん幹細胞を蛍光可視化し追跡し、がんの再発や転移のメカニズムへの理解と新たな治療法の開発への道を開く。

4. ヒト消化器組織幹細胞の理解
ー消化器再生治療の開発ー

 疾患細胞は、がんのニッチ非依存性獲得のように、正常の組織幹細胞を維持する機構に変化が起こることで正常な制御を逸した表現型を示す。疾患とその発生機構を理解するためには正常の組織幹細胞の制御機構の理解が不可欠である。ヒト組織から樹立した正常オルガノイドの新しい移植方法は、これまで不可能であった生体内におけるヒト正常上皮細胞の動態解析を可能にする。さらに“小さな臓器”の移植によって、治療法が確立していない難治性腸疾患の再生医療の実現化を目指す。

5. 新しい治療コンセプト
ー疾患組織そのものを用いた創薬開発ー